「0を1にすること」と、「1を10にすること」は違う苦労があるんだってさー「想像を創造する行為」における苦しみはやってみた人にしかわからないものー

“そんなの、俺も思いついてたよ!!”

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今、世界の総人口は約70億人にも達しようとしているらしい。毎日のように新商品や新サービスが登場しては消えていく。数百、数千、数万に及ぶ新たな試みの中から、後に新たな時代を築き上げるようなキラリと光る素晴らしい発明や発見が突如発表されることもある。

今回のエントリは、“そんなの、俺も思いついてたよ!!”と思わずテレビ報道を見ながら呟いた時に思い出してほしい、そんなお話。

 

「0から1」を生み出す力

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「創造的な活動」というとなんだかとても高尚で大変そうな印象を持ってしまう。それに、才能が必要だとか、天才にしかできないだとか、“自分ではないどこかの誰か”が創り出すものだと無意識のうちに感じていることがある人もいると思う。

一流のアーティストや名だたる科学者、作曲家や起業家など、“0から1”を生み出してきた人たちの多くはパッと思いついたことを、一瞬で形にできたのだろうか。往々にして、創作活動は想像以上に膨大な時間を要する。それこそ、有名アーティストの新曲が発表されると、その新曲を消費するにはものの5分もあればいい。しかし、それらを創り出すのには1年もの歳月がかかっているということを意識したことはあるだろうか。

“この程度のことなら、もっと前から俺も思いついていたよ”
よくこんな批判をする人がいる。

でも、頭の中で想像することと、それを実際に行動に移すことと、行動の結果を形にまとめることの難しさは大きく異なるっていうことを忘れちゃいけないと思うんだ。

「今までに無かったもの」を考えて、必要な情報や知識を蓄えて、行動に起こして、人を巻き込んで、うまくいかない時には立ち止まったり、突き抜ける努力をする日々を繰り返しながら一歩ずつ作っていくことの辛さは実際にやってみた人にしかわからない。

以前書いたエントリにも書いたように、「消費する人」なのか、「創り出す人」なのかによって、人間性の成長度合いが大きく異なるというのはまさに上で書いた通り、「苦しみに耐え抜いて価値を創っていくこと」を通して、遥かに大きな経験を積むことができるからだと考えられる。

一言シリーズー“消費する人“?それとも、“創り出す人”?ー

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好きなことがあったり、やってみたいことがあったりするのであれば、「できない理由」を列挙するのではなく、「失敗してもいいから行動に起こすこと」を強く意識することで、少なくともうじうじと思い悩んでいた日々からは解放されるのかもしれない。

何よりも、僕は「一歩一歩の積み重ね」こそが“想像”を“創造”に変える力を持つのだと信じている。いくつになっても、環境がどんなでも、本気になって、周りの意見に左右されないで、自分がやりたいと思っていることに取り組むことによって「0から1を生み出す力」を得られるのだろう。

 

「1から10」を生み出す力

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どちらが“良い”というわけではない。どちらにも必要な要素がたっぷりと詰まっている。“0から1”を生み出せる人が、“1から10”に繋げていけるわけではない。例えるなら、優秀なクリエイターが、必ずしも優秀なビジネスマンであるとは限らないように、クリエイターが産み出した作品を、メディアミックス等により上手に売り込んでいくことで、通常よりも遥かに大きな価値を生み出していくことは十分にあり得る。

そのために必要な力は「創造性」以上に、「客観的/俯瞰的な視点」を持っているかという部分になるのだろう。同時に、すでにある素材を組み合わせてレバレッジを高めるための「論理性(=ロジカルシンキング)」も大きなウェイトを占めることになる。

素材を組み合わせて価値を創造する作業では、“0から1”を生み出すまでに必要となる膨大な時間まではかかることが少ないが、その反面、「効率性を追求した思考」を持って行動にあたらなければ他の人に先を行かれたりすることもある。

もちろん、“十人十色”と昔から言われるように、創造的な思考が得意な人もいれば、論理的な思考が得意な人もいる。どちらが優れているとか、どちらが劣っているということではなくて、それぞれに求められる能力や努力のベクトルが異なるという点を認識した上で、自分が心から挑戦したいと思うことに情熱を傾けることが大切なんだと時々考える。

 

“コピぺ人生”で満足したくない

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インターネットが職場、家庭、そして個人の手元にまで届くようになった今では、GoogleやYahoo!といった検索エンジンでほんの少し調べれば、知りたい基本的な知識のほとんどは手に入る。でも、それによって手に入る知識の多くは、“コピぺのコピぺ”であることもあってか、どこか薄っぺらい表面上の知識だけに留まってしまう印象を抱いてしまう。

「調べる」という行為一つとっても、その目的が「調べること」なのか、「調べた結果を自分の行動に活用すること」なのかによって性質が大きく異なるのだと感じる。“他の誰かがどのように感じているか”であったり、“新しい娯楽に関する知識を仕入れたい”といった欲求は当然のこととして持ち合わせているのが人として当たり前のことだけど、「自分にしかない経験や考えを形に変えて、広く公開し、共有する」。そんな楽しみ方も“自分らしい人生”を送るのに一役買うのかもしれない。

敢えて、他の人や先人たちが敷いてきたレールを踏み外して、すぐ側にある興味深いことに足を踏み入れてみると、きっと新しい発見や仲間に出会えることもあると信じてみても面白そうだ。

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