映画「聲の形」を観てきた感想をまとめてみたよー人と違うこと、違いを受け入れること、人に優しくするということについてー
“おれと、西宮、友達に、、、なれるかな?”
話題の映画「聲の形(こえのかたち)」を観てきました。
聲の読みがわからない方が、似た字体の「蟹(かに)」を使って、「蟹の形(かにのかたち)」と検索してもGoogle先生の優しさで、検索結果最上位にちゃんと「聲の形」公式サイトが表示されるようになっているのにはなんだか不思議な安堵感を覚えました。
【公式トレーラー】(YouTube)「映画『聲の形』本予告」
【チェック】
元ガキ大将の主人公と聴覚障害があるヒロインの切ない青春を描いた大今良時のコミックを基に、『けいおん』シリーズなどの山田尚子監督が手掛けたアニメーション。主人公の少年が転校生の少女とのある出来事を機に孤立していく小学生時代、そして高校生になった彼らの再会を映し出す。アニメーション制作を京都アニメーション、脚本を『ガールズ&パンツァー』シリーズなどの吉田玲子が担当。ボイスキャストには入野自由と早見沙織らが名を連ねる。
【ストーリー】
西宮硝子が転校してきたことで、小学生の石田将也は大嫌いな退屈から逃れる。しかし、硝子とのある出来事のために将也は孤立し、心を閉ざす。5年後、高校生になった将也は、硝子のもとを訪れることにし……。
シネマトゥディ 映画「聲の形」
評価★★★★☆(星4.5)
原作「聲の形」は紆余曲折を経て公開された作品
この映画は週刊少年マガジンで連載されていた漫画が原作で、作者は大今良時先生。
一番最初のオリジナル版は2008年12月号でマガジンSPECIALに掲載予定であったそうですが、聴覚障害者へのいじめがテーマとなっているため、掲載が見送られて幻の作品となった経緯があるとのこと。その後、紆余曲折を経て、連載・映画化というステップを踏み、全国ロードショーで今現在話題を呼んでいます。
詳細はWikipediaに記載がありましたので、生い立ちから知りたい方はこちらも合わせてお読みください。
どちらか一方のテーマを取り扱うだけでも、とても複雑で丁寧かつ繊細な表現が必要となるにも関わらず、その両方を組み合わせて、作品として昇華しているのは作者の画力・構成力・細やかな配慮などの相互作用によるものだと思わされます。
作画はあの「京アニ」こと京都アニメーションが担当
映画化にあたっては、アニメーション制作をアニメ「けいおん」や「中二病でも恋がしたい!」、「Free!」などの有名ヒット作品を手がけてきた京都アニメーションが担当。
その甲斐もあって、作画は完璧で、息を呑むような美麗なビジュアルにより、あたかも現実世界のどこかで起きているかのように映画の世界に入り込めるだけのリアリティが見事に表現されていました。
京都アニメーションが作画を担当する時点で、映画そのものがヒットすることは概ね確実視されますが、それでもなお、作品のテーマそのものの重さとキャラクターの造形や綺麗なビジュアルによって作品全体に統一感とまとまりが出ていたのは、まさしく製作会社による作画の力も大きく寄与していると感じます。
作品のテーマは「障害」「いじめ」、そして「贖罪」
西宮さんの転入
小学校時代に転入してきた西宮硝子が掲げるノートに書かれていた「耳が聞こえません」という告白。
生まれつきの障害を勇気を出して告白した西宮さんに対し、真っ先に反応したのはクラスの悪ガキ石田将也。
初めはクラスのメンバーも西宮さんを受け入れようとして共同生活を続けていくも、合唱コンクールなどで他の子と歌のタイミングがズレてしまったり、クラスメイトとの意思疎通に齟齬が生じて、少しずつ少しずつ疎まれていきます。
一旦疎ましいと思われた時、小学生くらいの年代は「いじめ」という手段を使ってその存在を避けるようにすることがあるのでしょう。
作中では、西宮さんはその後、クラスの皆から陰湿ないじめにあうことになります。
周りから無視され、避けられ、補聴器を奪われて壊され、黒板に嫌がらせの言葉を書かれ、、、
とにかくいじめに関するシーンはリアリティがあって、何かしら身に覚えのある方の場合は、胸にズキッとした感覚が走ることもあるかもしれません。
いじめの主犯格から、いじめの標的へ
クラスの悪ガキ、ボス猿のような位置に君臨していた石田将也が中心となって、耳の聞こえない西宮さんをいじめていきますが、ひょんなことからその陰湿ないじめが明るみに、、、
寄ってたかっていじめていたグループ、遠くから見て嘲笑っていたグループ、我関せずと無視を決め込んでいたグループなどから、いじめの主犯格であった石田は吊るし上げにあいます。この時、石田を助けてくれる人は誰一人としていませんでした。
いじめの主犯格から一転、いじめの標的にされたのです。
昔からある諺に「因果応報」という言葉がありますが、まさしくこの言葉通り。
石田が自ら犯した罪が、自身に降りかかってしまったのです。
再び、出会う
小学生時代、悪ガキだった石田は自らがいじめられたことで、他人の顔を直視できなくなりました。かろうじて顔を上げることがあっても、その人の顔・表情を正面から捉えることができません。
顔にバッテン(バツ印)がついているのは、「心を許せていない」ことを表した表現なのでしょう。
そんな矢先に、石田は偶然にも昔いじめていた西宮さんに遭遇。
密かに習った手話を使って、石田は西宮さんにこう言います。
「おれと、西宮、友達に、、、なれるかな?」
小学校時代に西宮さんが石田に同じように手話で想いを伝えていたのですが、当時の石田はその手話が意味する「コトバ」を理解することができず、それ以上に「相手の気持ち」を受け止めるだけの経験も知恵も優しさも余裕も無かったため、一言“気持ち悪い!!!”と言いながら、地面の砂を掴んで思い切り西宮さんに投げつけて走り去って行きます。
“もしもあの時、西宮さんが、「コトバ」が話せていたら、、、”
そんな風に強く思うシーンではありますが、そこをグッと堪えて続きを観ていく重要な場面です。
石田の贖罪、そして友達
石田のトラウマ
周りの人と関わることを避けてきた石田。
彼の目には他の人の顔が映りこむことが無くなっています。
いじめを積極的に行ってきた悪ガキが、一気にいじめの標的になり、暗い小学校時代を過ごすことになったことのトラウマでこういった心情になることはやむを得ないのかもしれません。
どこかで聞いた言葉ですが、「人は失敗からしか学ばない」という格言があります。
失敗した時にはすでに取り返しのつかない事態になろうとも、やはり人は「失敗」からしか何かを学ぶことは難しいのでしょう。
とはいえ、失敗を失敗のまま塞ぎ込んでしまっては成長はあり得ません。
一度は人生を捨てようとした石田は、母親の強い思いにより「生きて、罪を償うこと」を選択します。
長束くんという理解者、広がる友達の輪
学校の帰り、不良に絡まれる長束くんの代わりに自分の自転車を差し出す石田。
そんな石田に一気に心を惹かれた長束くんは積極的に石田を遊びに誘い、「ヤーショー」というビッグブラザー感溢れるあだ名をつけ、ぐいぐいと石田の心に入り込んでいきます。
※ビッグブラザー=偉大なる兄弟、または国・世界レベルでの大規模な監視を行う人物・機関(ジョージ・オーウェル「1984」)
一旦友達ができると、次第に石田の心は解きほぐれ始め、一人、、、また一人と友達の輪が広がり始めていきます。
石田が抱いていた罪悪感、贖罪の気持ちの一方で、芽生え始めた「楽しい」という思い。
それは、長束くんという一人の理解者がきっかけで生まれた心地よい居場所でもあったようです。
それでも溝は、すぐには埋まらない
過去に起きた「いじめ」について、それに関わった当事者同士がそれぞれの思いを抱きながら距離を縮めていく様子は、見ていて安堵するシーンもあれば、反対に手に汗握る苦しいシーンもあります。
「コトバ」の壁の大きさにやきもきしつつ、それでもなお心に重くのしかかる各々の「トラウマ」に対して、一歩ずつゆっくりと変化していく彼らの姿に感じるものもあるはず。
どれほど辛く、どれほど苦しくても、
強く信念を持って、歯を食いしばって前を向いて、
ただひたすらに生きて行く。
その姿勢こそが、僕らにとってとても大切な「生き方の矜持」に他ならないのだと思います。
もし、このレビューを読んだ後に「聲の形」を観た方は、「人と違うこと」「自分の信念」「人生をともに歩むこと」といった当たり前だけど見落としがちな「自分なりの生き方」に想いを馳せてほしいと願っています。