【服が片付かない人へ】「服を買うなら、捨てなさい」を読んで思う-バリエーションと買い足しの罠-
“服が片付かない!!!”
毎年毎年、気づかぬうちに溜まっていくモノといえば「服」ですね。
男性は1週間の大半がスーツで、女性は多くの職場で(準)私服OKとなっていることが多いようです。
そうなると、男性と女性とでは、必要となる服の枚数が異なるため、最低限1週間の着まわしを用意にしてもかなりのボリューム差が出てきますね。
とはいえ、つい先日僕も仕事が終わって家に着いた時に、部屋の中に無造作に脱ぎ散らかされた服を見て、なんだか無性に断捨離欲が湧いてしまい、そのままの勢いで着なくなった服を丸っと捨てました。
結果として45Lのゴミ袋で、約8袋にもなる大量の服を処分。
きっかけは職場の先輩から借りた「服を買うなら捨てなさい」という本を読んだためです。
服を大量に断捨離するために、この本を読んで学んだポイントをまとめておきたいと思います。
「服を捨てれない人」の言い訳
「服を捨てれない」ということで困っている人は多いと思います。
でも、「なぜ捨てれないのか」について考える時間も無いまま、日々の仕事に追われて、気付いたらストレス発散とばかりにお気入りのブランド店などで「チョットキニナッタフク」を買って、後悔することもあったり。
「服を捨てれない人」が良く口にする言い訳はおよそ下の通り。
“まだ着れるから、とっておこう”
“痩せたら着れるから、とっておこう”
“また流行るかもしれないから、とっておこう”
“思い出の品だから、とっておこう”
“捨てるのが面倒だから、とっておこう”
いくつか思い当たる言い訳はありましたか?
僕は上の2つが自分の言い訳の中心でした。
“まだ着れる”“痩せたら着れる”を盾に、「捨てないための言い訳」で現実から目を背けていました。
しかし、この言い訳は現実から目を背けるために用意したものでしかなく、現実には「もう着ない・もう着れない」から衣装ケースに眠っている」のであって、「いつか着る・着れる時が来る」と期待して残すにはスペース上の無駄でしか無かったのです。
流行が戻ってきた時には、もう着れない
また、「服を買うなら捨てなさい」に書かれていた以下の文。
「でも流行は繰り返すっていうし、取っておけばまた使えるんじゃない?」と言う方。
そのとおり、たしかに流行はまた巡ってくるもの。けれど、その時自分が何歳になっているかを考えたことはありますか?
流行が再来した十数年後には、もうすっかりオバさんになって気分も変わり、着られなくなっている可能性も大。
シビアなお話ですが、その頃にはもう、若い時のように何でも似合うというわけにはいかなくなっているはずです。
「服を買うなら捨てなさい」p.29より引用
これは確かにおっしゃる通り。
巡ってきた当時の流行服は、十数年の時を経て、素材もシルエットも現代風にアレンジが施されているため、言わば「リメイク」されているのです。
そのため、再来した当時の流行服をクローゼットから引っ張り出して着てみたところで、黄ばみ・ヨレ・シワ・古臭い匂いに包まれて嫌な気持ちになり兼ねません。
そう考えて「あの時いっぱい着て楽しませてくれてありがとう!」という気持ちを持って、堂々とゴミ袋へ突っ込みました。
服は買い直しが可能
流行こうして日常使いではない服はどんどん捨てていくことができ、クローゼットもかなりスッキリしました。
よく服の断捨離をやり過ぎると着れる服すら無くなってしまうと脅す書籍やブログを見かけますが、それはひとえに「捨てる基準が曖昧だから」に他なりません。
「買うは天国、捨てるは地獄」
これは、私が雑誌の連載などでよく言っている言葉です。
買うときは楽しいものですが、捨てるときはものすごいパワーが必要。
さらに歳を経るにしたがって、量が増えて捨てる労力は増しますし、一方で捨てる気力は失われていきます。大量に物を捨てるときには、罪悪感もともないます。
考えもなく適当に買い続ける一方では、歳の数に比例して雪だるま式に服は増え、最後はムダ服の山に埋もれて、もはやどうしようもない状態のまま一生を終えることになってしまうでしょう。
「服を買うなら捨てなさい」p.33より引用
「ときめくかどうか」で捨てるかどうかを決めるコンマリ流断捨離術も僕にとってはわかりやすかったですが、この本ではそもそも「自分にとってのおしゃれとは何ぞ?」という根底から見直す事がコンセプトになっているため、より具体的な断捨離視点を得るきっかけになりました。
実際に書かれていたおしゃれ観を下にまとめました。
間違ったおしゃれ観
「何でも着こなせる=おしゃれ」という罠
オーソドックスな服装に加え、原宿系・古着系・B系といったように、「服」というツールを考え直してみると本当に幅広い系統が広がってます。
「どれを着ても完璧に似合う!」
という理想(妄想)は、服が好きな人なら誰にでもあるかもしれません。
ですが、安易にレパートリーを増やしてしまい、「着なくなった服」がクローゼットの中のスペースを占有してしまう事態につながる可能性が高いのもこのパターン。
「何でも着こなせる」というのは、読者モデルなどの容姿・身長・体型が整った人たちに譲り、僕らは「自分の得意パターン」で勝負するように心がけた方が、結果的に無駄なく服を着回せるようになりますね。
柄物が似合わないなら、無地物にしましょう。
ダボダボの服が似合わないなら、すらっとしたスリムな服を着ましょう。
サングラスが似合わない?別にいいじゃないですか。
原色系の服を着たい?ワンポイントに抑えましょう。
いいんだと思います、完璧でなくて。
自分なりにアレンジして、自分なりに楽しんで、友人から「安定感あるよね」と言ってもらえれば、それはそれで一つのゴールと捉えてみるのも悪くはないのだと思います。
「おしゃれなものを持っている=おしゃれ」という罠
「おしゃれないアイテム」と言われると心が踊ります。
ワンポイントのアクセサリー、人気のリュック、有名ブランドの腕時計。
考えてみれば、世の中にはたくさんの「おしゃれ」な小物が溢れかえっていますね。
お店で見た時には、それを身につけることでさも自分の価値が高まるかのうような錯覚を覚えてしまいます。
実際に買ってから、家で一人ファッションショーをしてみると、、、
“あれっっ??あの時は確かに似合ったのに、、、”
こんな風に感じたことがあるのは僕だけじゃないはずです。
買い物している時の高揚感や、おしゃれなお店にあるおしゃれなアイテムを物色している雰囲気の中にいたから「その時は確かに似合っているように感じた」のかもしません。
しかし、一歩外に出て冷静に見直してみると、実は案外そうでもないということも多くあります。
「おしゃれなもの」を取り入れること自体は素晴らしいことですが、服装をコーディネートする時は、厳選しないと無駄に数が増える上に「中途半端なお気に入り」が量産されてしまいます。
世間一般で言われる「おしゃれなもの」よりも、自分に合う「ぴったりなもの」を探すようにすると楽しみながら買い物もできる気がします。
「流行を取り入れている=おしゃれ」という罠
これも陥りがちな罠です。
「流行りの服を持っているからおしゃれ、持っていないからダサい」という考え自体が既にファッション業界の思い通りとなっていることに気づかない思考停止状態に陥っている可能性が高いです。
ファッションの流行は、それ自体が自然発生したものではなく、ファッション業界が芸能人やファッションモデルを駆使しながら、数年先のファッショントレンドを見据えて先導しているものなのですから、盲目的に流行を追いかけすぎないようにした方が「自分らしさ」を追求できるでしょう。
流行そのものを楽しむという考え方もありますし、それはそれでアリだと思います。
一方、服を増やし過ぎたくない人にとっては、いずれ終わる流行を追いかけることで、終わりのない道を延々と走り続けることになるのであれば、早々に退散する方法も選択肢に入れるという考え方を持つことも大切です。
「流行している服」を着た時、本当に「自分自身の価値も高まる」のかどうか、判断基準をそこに集約して考えてから手を出すか判断しても遅くはないかもしれませんね。
「若い人の服=おしゃれ」という罠
これはある意味、上の項目に近い気がします。
若い人の服は、流行を取り入れた最先端のファッションであることが多いかもしれません。
渋谷や原宿を歩くだけで、今のトレンドがおおよそ分かるほど、若い人たちのファッション感覚は日々変化していることがよく分かります。
ただ、これを自分の年齢を考慮せずにむやみやたらに若い人の服装を参考にしても、それらの大半は無駄に終わる可能性があります。
あくまでも「若い人の服」は「若い人のための服」なのです。
どうしても着たいと思うなら、ワンポイントで取り入れたり、普段の服装に自然に溶け込むような物を選んで買うように心がけた方が無駄な服を買い漁る機会を減らすことができるはず。
「抱え込み服」の大処分を行う
そして、実際に大量の服を捨てるために参考にしたのが、本書に書かれていた以下の項目。
クローゼットの中にあった「抱え込み服」を見直し、一枚一枚が「今の自分にとってどんな位置付けか」と考えながら厳選をしていきました。
朝、鏡の前で脱ぎ捨てた服
休日に友人と遊ぶとなった時、大きな鏡の前で一人ファッションショーをしながら、“うーん、なんか違うんだよなあ、、、”とぼやきつつ脱ぎ捨てたあの服。
何度か着ては脱ぎ、着ては脱ぎ。
結局のところ、その服は自分の中では「似合わない服」に位置付けられていることから目を背けながら、捨てれずに長い時間保管をしてきました。
どれだけ長期間保存したところで、一度「似合わない服」と認識した瞬間から、それは自分の価値を高めてくれる服という位置付けには戻らないことが多いようです。
朝、鏡の前で脱ぎ捨てたその服こそ、いまの自分にとって不要な服なのだということを認識しましょう。
実は着ていない服
“プレゼントでもらったから”
“高いブランドの服だから”
“柄が気に入っているから”
色々な理由で「今、必要としていない服」であっても捨てることなく保管しているなんてことはありませんか?
僕はそういった服がありました、それも大量に。
「いつか着るかもしれない」と考えているうちは、絶対に着る機会はやってこない。
そう気付いてから、着なくなった服というのは自分の中で既に役目を終えている服なのだという風に考えることにして、再び「もったいない病」が発症する前に“えいやっ!”と勢いに任せてゴミ袋へ突っ込みました。
似合わなくなった服
これに関しては諦めが肝心なのかもしれません。
体型の変化、加齢による容姿の変化、流行を過ぎた服、機能性の古い服。
そうした様々な変化によって、似合わなくなる服というのは必ず出てきますよね。
こうした服を目の前にした時に、「よし、手放そう」と潔く思えるかどうかが大きな境目のような気がします。
時の流れとともに、今まで持っていた服が似合わなくなるのは仕方のないこと。
そう割り切って、新しい定番の服に出会うために街のショッピングセンターへ買い物に出かけるのがストレスなく服の入れ替えができる方法の一つかもしれませんね。
捨てて初めて気づくこともある
服を大量に処分してわかったことがあります。
それは「無意識のうちに上澄みの服を選んでいる」ということです。
クローゼットにしまい込んだ「いつか着るかもしれない服」を改めて手にとって見たとき、今着ている服入りもどこか魅力が薄れてしまっているように感じました。
そして実際に「久しぶりにあの服着たい!」と思うような機会もないまま、数年の月日が経過していました。
新しい服を買うたび、気づかぬうちに「上位互換の服」を選んでいるのかもしれません。
もしくは、1人の人間が所有できる服の数には限界があって、単純にキャパシティオーバーとなってしまっただけの可能性もあります。
いずれにせよ、古い服を捨てることは、新しい服と向き合うことでもあることが分かりました。
「足るを知る」ということの大切さを身にしみて感じます。
等身大の自分を愛しましょう。
でないと、自分を不幸せにしてしまいます。
「服を買うなら捨てなさい」p.170より引用
人は誰しも若い時期を経験し、時間の流れとともに老いていきます。
いつまでも若々しいままの姿で、いつまでも若々しい服を着て、いつまでも若々しく見られたい。
そう思うことは決して悪いことではないと思います。
一方で、日に日に顔や体のシワは増えていき、肌のハリやツヤは失われていきます。
そうなったときに「違う!本当の私はこんなんじゃない!!」と拒絶して悲しい気持ちになることもあるでしょう。
ですが、鏡に映る自分の姿かたちこそが「今の自分自身」なのです。
認めようが認めまいが、自己否定をすることで現実の自分を無かったことにはできません。
だからこそ、「等身大の自分」を「好き」になるようにしたいですね。
まとめ
「ときめくかどうか」を基準に断捨離を進めていく中で、“もう少し具体的な基準はないのかなあ”とぼんやり考えていた時に教えてもらったこの本。
一通りさらっと読んでみて、全てが全て自分に合っていたわけではありませんが、しっかりと納得できる記述も多く、参考にさせてもらいながら、クローゼットのダイエットに成功しました。
本書の中で一貫して述べられていたことは、「等身大の自分を知ること」と「今の自分に合った服こそがベスト」の2点だったように僕は感じました。
他の嗜好品とは異なり、普段の生活と切り離すことができない「服」に対して、「捨て方」や「役目を終えたと考えるタイミング」を考えるのはある程度きっかけがないと難しいかもしれません。
このエントリをお読みいただいた方は、「部屋の整理をしたい」とか「増えすぎた服を処分したい」といった目的があってここにたどり着いたのかと思います。
ぜひこれをきっかけに、クローゼットに眠っている「捨てれない服」を見直して、ばっさりと断捨離を進めてみてください。