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星を見ない大人と箱の中身を言い当てる子ども-あのときの王子くん(新訳:星の王子様)- | たいようのライフログ

星を見ない大人と箱の中身を言い当てる子ども-あのときの王子くん(新訳:星の王子様)-

“さて、この箱の中には何が入っているでしょう”

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どうも、七色たいよう(@nanairotaiyo)です。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが1943年に執筆した「星の王子様(原題:Le Petit Prince)」の新訳版である『あのときの王子くん』を青空文庫にて読み終えました。

 

一通り読み終えた後に感じたことは、“大人の当たり前”と“子どもの好奇心”は元を辿れば「同じ世界に存在するできごとやものごと」であるにも関わらず、見方がこれほどまでに変わるのかということでした。

『あのときの王子くん(青空文庫)』

 

 

 大人は星を見ず、子どもは箱の中を言い当てる

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ぼくはいってやった。
「ハコ、ね。きみのほしいヒツジはこのなか。」
ところがなんと、この絵を見て、ぼくのちいさなしんさいんくんは目をきらきらさせたんだ。
「そう、ぼくはこういうのがほしかったんだ! このヒツジ、草いっぱいいるかなあ?」
「なんで?」
「だって、ぼくんち、すごくちいさいんだもん……」
「きっとへいきだよ。あげたのは、すごくちいさなヒツジだから。」
その子は、かおを絵にちかづけた。
「そんなにちいさくないよ……あ! ねむっちゃった……」
ぼくがあのときの王子くんとであったのは、こういうわけなんだ。

(『あのときの王子くん(青空文庫)』より)

最近、じっくりと時間を忘れて星を見たのはいつでしょうか。

 

そんなことも思い出せないほど「忙しい、忙しい!!」と言いながら、日常生活を送っている人も多いはず。

 

子どもの頃は、「世界に果てはあるかな」「人は死んだらどうなるんだろう」「空に浮かぶ無数の星の中にはきっと地球に似た星がある」などと考えては、空想の世界を広げていったように思います。

 

大人になるにつれて、自分の近くの出来事にしか関心を持たなくなり、あきらめ癖もついてきます。

新しいことに挑戦することもせず、与えられた仕事に没頭するだけの今の毎日は、子どもの頃の僕らが思い描いていた未来の自分でしょうか。

 

大人に箱の絵を見せ、“この箱の中身は何でしょう?”と問えば、“見えないので、わかりません”という返事が返ってきます。

 

しかし、子どもに同じ箱の絵を見せ、同じ問いをすると“甘くて美味しいケーキ!”“巨大な怪獣!”などのような一人一人異なる無限大の返事が返ってくるかもしれません。

 

夢や空想、何よりも好奇心を失ってしまったら、「人として生きる喜び」を失ってしまうように感じます。

 

「想像力こそ人間の最大の武器」とすれば、幾年月を重ねようとも、常に新しいことへの挑戦や視点を変えて物事を注意深く見ることで、世界はまた違った価値を提供してくれるはずです。

 

ちなみに、僕も20代後半になった今になって初めて電子ピアノを買い、仕事の合間を縫って練習に勤しんでいます。

 

 「数字」が好きな大人になっていないだろうか

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こうやって、しょうわくせいB612のことをいちいちいったり、ばんごうのはなしをしたりするのは、おとなのためなんだ。おとなのひとは、すうじが大すきだ。このひとたちに、あたらしい友だちができたよといっても、なかみのあることはなにひとつきいてこないだろう。つまり、「その子のこえってどんなこえ? すきなあそびはなんなの? チョウチョはあつめてる?」とはいわずに、「その子いくつ? なんにんきょうだい? たいじゅうは? お父さんはどれだけかせぐの?」とかきいてくる。
 それでわかったつもりなんだ。おとなのひとに、「すっごいいえ見たよ、ばら色のレンガでね、まどのそばにゼラニウムがあってね、やねの上にもハトがたくさん……」といったところで、そのひとたちは、ちっともそのいえのことをおもいえがけない。こういわなくちゃ。「10まんフランのいえを見ました。」すると「おおすばらしい!」とかいうから。

(『あのときの王子くん(青空文庫)』より)

子どもの頃に、公園で遊んでいた時にできた新しい友達に対して、「この子のお父さんはどれくらい年収をもらっているのか」「何歳で、何人兄弟で、成績はどのくらいだろうか」なんて考えることもなく、ただただ公園の中を多くの友達と一緒に夢中で走り、笑い、仲良くなっていました。

 

年を重ねるごとに、人の価値を「数字」という尺度で計ったりしてしまいがちです。

 

例えば、

「一着数万円もする服、時計やアクセサリーを身に纏い、1000万円を超える年収で友達が10000人いる人」

 

と聞くと、相当素晴らしい才能と人格を兼ね備えた人のようにも感じられるかもしれません。

 

しかし、これだけではその人が“どのような声”をしていて“どんな笑い方”をするのか、そして“星を見てどんな風に感動するのか”といった「人としての本来の姿」が一切伝わらないのです。

 

確かに、「複雑な要素が無数に散りばめられて構成されている集合体としての世界」「数値化」することでより「単純化」することができ、各要素をわかりやすく捉えることはできます。

 

しかし、せめて身近な人や新しい人と接する際、「数字」という尺度を一旦頭の中から取払い、その人自身の良さや笑顔、価値観とじっくり向き合ってみることも重要なのではないでしょうか。

 

その「当たり前」は、本当に「当たり前」?

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ねえ、王子くん。こんなふうに、ちょっとずつわかってきたんだ。きみがさみしく、ささやかに生きてきたって。ずっときみには、おだやかな夕ぐれしか、いやされるものがなかった。このことをはじめて知ったのは、4日めのあさ、そのとき、きみはぼくにいった。
「夕ぐれが大すきなんだ。夕ぐれを見にいこう……」
「でも、またなきゃ……」
「なにをまつの?」
「夕ぐれをまつんだよ。」
 とてもびっくりしてから、きみはじぶんをわらったのかな。こういったよね。
「てっきりまだ、ぼくんちだとおもってた!」
 なるほど。ごぞんじのとおり、アメリカでまひるのときは、フランスでは夕ぐれ。だからあっというまにフランスへいけたら、夕ぐれが見られるってことになる。でもあいにく、フランスはめちゃくちゃとおい。だけど、きみの星では、てくてくとイスをもってあるけば、それでいい。そうやってきみは、いつでも見たいときに、くれゆくお日さまを見ていたんだ。
「1日に、44回も夕ぐれを見たことがあるよ!」
 といったすこしあとに、きみはこうつけくわえた。
「そうなんだ……ひとはすっごくせつなくなると、夕ぐれがこいしくなるんだ……」
「その44回ながめた日は、じゃあすっごくせつなかったの?」
 だけどこの王子くんは、へんじをなさらなかった。

(『あのときの王子くん(青空文庫)』より)

普段、「当たり前」だと思っていることも、見方を変えれば「当たり前」ではなくなるかもしれません。

 

“一日中昼間の場所はあるか”という問いに対し、「当たり前」のように“ありません”と答えます。

 

しかし、世界全体から見た時には、北極圏の夏頃に『白夜』という一日中太陽が昇り続ける日があるのです。

 

また、何かあればすぐに「すみません」と口に出すことも、日本人であれば「当たり前」であるが、外国人から見ればそれは『おかしな風習』に映ります。

 

アインシュタインによると、『常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う』とされています。

 

昔から、『十人十色』ということわざにも表される、自分の偏見のコレクションで人を判断せず、まずは人の意見をしっかりと受け入れる姿勢が大事だと言えるでしょう。

 

 

 

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