「恥ずかしい」という感覚の功罪-なぜ日本では恥を重んじられるのだろうか-

“Why are Japanese so shy??”

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どうも、七色たいよう(@nanairotaiyo)です。

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先日、オンライン英会話の講師から「Why are Japanese so shy??(どうして日本人はとても内気なの?)」と尋ねられました。

 

一見答えるのは簡単そうな質問でしたが、よくよく考えてみると意外と難しいものです。

 

その場でなんとなく思いついて返したのは、次のような内容でした。

 

「Japanese are polite.

For example, when someone do something to other people, neither good or bad, they always say ‘I’m sorry. I’m sorry’.

Maybe I think that it is very important to be humble in Japan.”

 

そして、その日の英会話が終わってから、改めて「なぜ日本人は恥ずかしがり屋が多いのか?」について考えてみました。

 

人と違うことは「悪いこと」?

こんな話を耳にしたことがあります。

 

アメリカ人は「君もヒーローになろう!」というと行動を起こすが、日本人は「他のみんなはもうやってるよ!」というと行動を始める。

 

これには思い当たる節も多く、多くの日本人は常に「他の誰かがやっているのか、やっていないのか」を前提に考えているように感じます。

 

学校であれば、他の人がやっていないことをやっていたら僻みの対象になったり、協調性がないと罵られます。

 

職場であれば、「例年通り」や「過去の事例」、「他社の動向」を見てから自社が動くべきかどうかを考える傾向にありますね。

 

職場内においても、未だに「出る杭は打たれる」文化は健在のところも多いようです。

 

「出過ぎた杭は打たれない」なんて言い回しも耳にしますが、杭が出過ぎる前に打ちにかかってくるのが日本企業、日本人上司・同僚の特徴なのです。

 

 

人が人と違うのは当たり前のことです。

 

しかし、日本では「他の人との違い」は「悪」とされ、「他の人と同じ」は「善」とされる不思議な文化が根付いています。

 

波風立たさぬ振る舞いも確かに大切なことではありますが、大人になった今「人と違った自分なりの考え方・特技」こそが武器になるのだということをこの身を以て体験している日々です。

 

創造性を育てない教育

正直なところ、良い成績を取ることはその後の人生に大きな影響を与えます。

 

「良い学校に行き、良い成績を取り、良い会社に入る。あわよくば公務員ならなお良い」

 

とてもわかりやすい目標です。

 

親から耳にタコのように聞かされた方も多いのではないでしょうか。

 

上のような目標を達成するために、学生は皆、学校で指定された科目で良い点を取るために、ひいては難関の大学受験で合格するために日夜勉強を続けます。

 

一方で、子どもの時にこそ人は創造性を発揮して、間違いを恐れず、どんどんチャレンジするのもまた事実です。

 

TEDトークの中でも群を抜いて秀逸なプレゼンテーション「学校は子どもの創造性を奪っている」というものがありますが、これを見ると、大きく頷いてしまう名言に出会うことができます。

 

多くの創造的な企業や海外においてさえ教育現場が子どもたちの創造性を奪っているとされているのに、日本の教育カリキュラムなんて言うも及ばず…

 

もちろん基礎知識となる科目の知識を習得することは大切で、欠かせないものであると思います。

 

一方で、「答えを出すための学び」や「周りの人と同じような格好・考え方・行動が求められる集団生活」だけでは、『未挑戦の分野に足を踏み入れる勇気』を身につけることは難しいのかもしれません。

 

間違うと「怒られる」

決められた手法があり、決められた答えがあり、決められた反応がある。

 

こういった「決められた事柄」から一歩でも外そうものなら、途端に顔を真っ赤にした大人が「違う違う違う!それは間違ってる!」と足早に駆け寄って僕らを責め立ててきます。

 

「間違い」は「悪」で、「矯正」は「善」というのが日本人的な考え方なのでしょう。

 

誰も挑戦したことのない分野において、何かを創り出す過程では、必ず様々な試行錯誤が必要となります。

 

失敗に失敗を重ね、成功するまで挑戦し続ける。

 

その結果として「創造性のある人」になるのであって、最初から「答え」という名の偏見を植え付けてはいけないのだと思えてなりません。

 

答えが用意されているテストでは、誤りは「悪」かもしれませんが、答えが用意されていない実社会では誤りは挑戦に付随する副産物であり、成功への糧なのです。

 

怒られれば人は当然萎縮します。

 

それが他の人の前であればなおのこと。

 

一度怒られて恥ずかしい思いをした子どもは学びます。

 

「怒られないためには、大人の言う通りにすれば良いんだ」と。

 

僕らの親世代が生きてきた時代と僕らの生きている時代が違うように、子どもたちが「これから」生きる時代と、僕ら大人たちが「これまで」生きてきた時代はきっと大きく異なるはずです。

 

未来の大きな変化を見据えた「間違いではない」助言ができる人はいったいどれだけいるのでしょうか。

 

「理由」を述べよ

一般論を答えるのは割と簡単でしょう。

 

今やひとり一台携帯電話を持っていて、家にはパソコンがあり、テレビがあり、外に出れば漫画喫茶などでもすぐにオンラインで情報を集めることが可能です。

 

Yahoo!ニュースやsmartnews、テレビの各メディアによる報道番組など、日本国内だけでなく世界情勢まで一瞬で情報をかき集められる時代です。

 

しかしそれは「他の誰かの意見」なのです。

 

メディアによる世論の操作に関しては掘り下げると大きな議論へと発展してしまう可能性があるので、ここでは触れません。

 

ここであえて話したいのは、

「じゃああなたはどう考えるの?」です。

 

待機児童問題、憲法改正に関する問題、ご近所トラブル、教育現場の抱える問題などなど。

 

振り返ってみれば、今の世の中も中々に大きな問題をたくさん抱えているようです。

 

新聞記事やテレビニュース、インターネットニュースなどではそれぞれの思惑を内在させながら僕らにニュースを提供します。

 

それらを鵜呑みにするのではなく、出来事の事実として受け入れた上で、「自分ならどう考えるか、何ができるか」をきちんと理論立てて説明ができるように常に思考を巡らせていかなければならないのだと感じます。

 

その意見には「正解」や「間違い」を超えた先にある「思い」が宿り、「行動」へと繋がる動機が生まれる余地があります。

 

メディアが流すニュースだから無条件で「正しい」とは考えず、しっかりと自分の意見を持って話ができる素地を作っていきたいですね。

 

島国特有の国民性

そしてここが最も大きなポイントかもしれません。

 

日本が島国であること。

土地が狭く、一つの列島をみんなで共有していることも手伝ってか、共同体意識や同一化、村意識が大陸系の国々よりも強いという部分が影響しているのでしょうか。

 

少なくとも、他の人との距離が否が応でも近いこともあり、意識せずとも隣にいる誰かと自分の状況を重ねてしまいがちです。

 

人より劣っていても、人より優れていてもいけない。

 

そんな考え方が自然と身についてしまう不思議な現象が起きているのです。

 

まとめ

「なぜ日本人はそんなに恥ずかしがり屋なの?」という何気ないオンライン英会話講師からの質問に、はっきりとした答えを返せないまま悶々とした疑問を抱えてきましたが、僕なり感じた理由をまとめてみることはできたように思います。

 

これこそ、答えがどこかにあるようで、実はどこにもないというジレンマでしかないのですが、一つの結論を述べさせてもらえるのであれば、僕が言いたいことはただ一つ。

 

「恥ずかしがっている暇があったら、まずは行動してみようよ!」

 

完璧主義者が多い日本人は、とにかく失敗を恐れ、時には失敗した人を蔑む傾向にあるようです。

一方で、人は失敗から多くのことを学ぶのも事実。

 

人の失敗を影で笑うよりも、自ら恥をかいて笑われるくらいの行動力がある人の方がいくらか魅力的ってもんじゃあないかなって気づいたのです。

 

 

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