人と会うこと、人と話すことの価値と意義ー自己啓発に特化した“意識高い系”から脱するにはまず行動を起こすことからー

“何かやらなきゃ、いつかやらなきゃ”

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今日は、僕が大学生の時に力を入れていた家庭教師時代にとても仲の良かった生徒と会ってきた。

現在は大学生にもなった彼とは長い間会うタイミングが無かったこともあり、お互いの近況だけでなく、これまでに経験してきた様々な体験を聞くことができた。

 

支援という名の「善意の押し付け」

ボランティア活動や実際に自分の目で見るため、友人と共に途上国へ行き、そこで途上国の現実を見てきたという。

本には書かれていない生々しい現実と、現地の人の生き様には考えさせられるものがあり、皆が口にするような「物資の支援」は、現地の人にとっては「善意の押し付け」になりかねない事態になっているように感じるとのこと。

確かに僕らは日本のマスメディアの扇動によって、「途上国」=「貧困に喘ぐ国々」という認識の下、せっせと物資の支援や資金援助に勤しみがちだ。だけど、現地においては「海外から送られた物資や資金は、適切に再分配されず、闇市のようなマーケットに横流しにされている」というのもまた事実なのだと。

恥ずかしながら僕自身、そういった分野に関する本は少しかじる程度にしか読んでいないので、マスメディアによる一般的な「かわいそうな子供たちがいる国々」という程度の認識しかなかったのだが、今回その現実を目の当たりにした人からの話を聞くことができたことで、良い意味でとても大きな衝撃を受けた。

 

「魚の釣り方を教える」ことの大切さ

そして彼は続けて言う。

「日本人が思っているように、現地の人たちは自分のことを可哀想と感じているようには思えなかった。むしろ、強く生きている。本当に必要なのは彼らに施しを与えることではなく、彼ら自身が何かを作り上げる“キッカケ”を共に模索することだ」

確かにその通りだ。

現実を目の当たりにもしないで、テレビや雑誌に映し出される「かわいそうな子供たち」に対し、「何かしなくちゃいけない!」と感じた時に、本当にやるべきことは【物資支援】や【資金援助】ではなく、【彼らが生き抜くための知識や技術を共に作り上げること】なのだろう。

そう考えた時に、頭を過ぎったのは、以前衝動買いした、税所篤快さんの「前へ!前へ!前へ!(GO、GO、AHEAD!)」だった。彼は早稲田大学に在籍しながらも、単身でバングラディシュ渡り、バングラディシュ版ドラゴン桜を実践し、成果を上げた。
税所さんは、バングラディシュの最難関大学であるダッカ大学へ辺境の村の若者を送り込むために、首都圏最高峰である予備校の有名講師の授業を映像化して、村の若者にDVD化して“村にいながら、最高の授業を受けることができる機会”を作り上げたのだという。

こういった行動の根幹にあるのは、【魚を与えるのではなく、釣り方を教えるんだ】という考え方なのだ。

 

思い立ったら教科書よりも、行動を

大切なのは、自分の体を使って人と出会い、現状を知り、自分ができることを“実践していく”ことにあるのだと心から思わされる。これは、途上国への支援に限った話ではなく、【起業したい】とか、【キャリアアップしたい】とか、【資格を取りたい】といった様々なことに当てはまる。

僕の目指す方向性は、まだ模索中ではあるが、自分が「やりたい!」と思ったことはとにかく何でもやってみることにしている。

「◯◯をやってみたい!」と考え(時には口にし)、実践するまでに無駄な時間を浪費しながら「今はまだ勉強不足だから、もう少し後ででいいかな、、、」なんて言っている間に、あっという間に時間は流れていく。“自称意識高い系”の自分に酔うのはいいが、周りから見たらただの「口先だけの人」ということになりかねない。

インターネットで大体の情報は簡単に手に入る時代になってはいるが、本当に貴重な情報や、人が感じた熱い想いやマスメディアを通さない現実の姿は、人と会って、直接話すことでしか手に入らない。同時に、そういった人の話を聞くことで、「自分には何ができるのか、何をしたいのか」といったことを考えるいい機会となる。

「個人で途上国に行って、現地を見るだけなら誰にでもできるけど、本当の課題は、それをどのように成果として残すことができるかだ」と言う元教え子の言葉には僕の胸に突き刺さる何かがあった。

やりたいことを夢想するだけの日々には何の価値もない。泥臭くても、必死そうでも、一見バカみたいでも、実際に一歩を踏み出し、積み上げていく作業から全ては始まるのだと実感した。

 

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