「嫌われる勇気」を読んでみたから感想をまとめてみたー“世界は想像以上にシンプルで、限りなく自由である”ー

“今こそ、「嫌われる勇気」を!!”

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本屋に行き、人気ランキングコーナーに目を向けるととても目立つように並べられた「嫌われる勇気」と書かれた青い本。帯には「自由とは他者から嫌われることである(伊坂幸太郎)」と書かれており、少々気を取られてしまった。

そして、気づけばkindleストアにあった「嫌われる勇気」を購入し、iPad miniにダウンロードしていた。

 

前提として、本書は「アドラー心理学」に基づいた実践的な指南書という位置づけで、「世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる、と説く哲学者」と「納得のいかない青年」が対話形式で話を進めていく構成となっているようだ。

読み進めていくうちに、僕自身同じように考え、感じていた内容がふんだんに盛り込まれていたため、要点をまとめつつ、感想を書いてみた。

 

 子どもにとっての世界、大人にとっての世界

青年「まずは先生のご持論に乗っかった上で、その可能性から考えてみます。 世界はシンプルであり、人生もまたシンプルである。もしもこのテーゼに幾ばくかの真理が含まれるとするなら、それは子どもにとっての生でしょう。子どもには、勤労や納税といった目に見える義務がありません。親や社会に守られながら、毎日を自由気ままに生きています。未来はどこまでも続いていて、自分にはなんでもできるように思える。醜い現実を見なくてすむよう、その目を覆い隠されている。 なるほどたしかに、子どもの目に映る世界はシンプルな姿をしているのでしょう。 しかし、大人になるにつれ、世界はその本性を現していきます。「お前はその程度の人間なのだ」という現実を嫌というほど見せつけられ、人生に待ち受けていたはずのあらゆる可能性が〝不可能性〟へと反転する。幸福なロマンティシズムの季節は終わり、残酷なリアリズムの時代がやってくるわけです」

「嫌われる勇気」(岸見 一郎, 古賀 史健)※以下、本書より引用

「世界はどこまでも無限に広がっていて、毎日は終わりなく続いていて、未来はずっと明るく楽しい」と、子どもの頃は大きな夢と漠然とした未来への期待を胸に抱いていた。

 

大人になった自分はどんな仕事についているだろう。

大人になった自分はどんな生活を送っているだろう。

大人になった自分はどんな友達と一緒にいるだろう。

 

見えない未来と、覗き込もうとする自分の心。しかし、大人になってみると気づかされる現実という困難な壁。見上げれば永遠に続くかのように思えるような断崖絶壁が眼前に立ちはだかり、自分の力が及ばないものがあることに気づかされるのだ。

 

ただ、哲人はそういった青年の主張を鼻で笑うように一蹴する。

哲人「それは『世界』が複雑なのではなく、ひとえに『あなた』が世界を複雑なものとしているのです」

哲人「人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界と違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう」

すべての考え方はここにあるのだと、本書を一読し終えてから改めて実感した。

人は、およそ誰もが「主観的な世界」に生きているのであって、それは他の誰とも共有しえない。つまり、“誰かに分かってほしい”と考えること自体がそもそも間違っているのだということだ。

 

もしかしたら、子どもの頃の自分は無意識に「主観的に世界を捉えていた」のかもしれない。自分が世界の中心で、自分という人生の主人公で、出会う困難はきっと打ち勝てるだけの根拠ない自身に溢れていたのだろう。一方で、大人になった自分は、学校や会社などでの対人関係に悩み、自分以上に能力のある人を見ては自分を卑下し、自身を失っていく。

これこそ、「主観的/客観的な世界の見方」の本質なのだろうか。

 

 

人は誰もが「目的」を持って行動する

哲人「外に出ることなく、ずっと自室に引きこもっていれば、親が心配する。親の注目を一身に集めることができる。まるで腫れ物に触るように、丁重に扱ってくれる。 他方、家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」になってしまいます。見知らぬ人々に囲まれ、凡庸なるわたし、あるいは他者より見劣りしたわたしになってしまう。そして誰もわたしを大切に扱ってくれなくなる。……これなどは、引きこもりの人によくある話です。 青年 じゃあ先生の理屈に従うなら、わたしの友人は「目的」を成就しており、いまの状態に満足している、となるのですか? 哲人 不満はあるでしょうし、幸福というわけではないでしょう。しかし、彼が「目的」に沿った行動をとっていることは間違いありません。彼にかぎった話ではなく、われわれはみな、なにかしらの「目的」に沿って生きている。それが目的論です」

アドラー心理学では「トラウマ」の存在は明確に否定されている。

「トラウマ」とは、過去に心の傷を生むような何かしらの原因があって、それにより現在の自分自身に影響を及ぼすという「原因論」に基づく考え方だ。しかし、原因が何であれ、現在の自分は過去と切り離されているため、人が行動を起こすのはすべて何かしらの目的を成就するためという「目的論」としての考え方が提示されている。

引きこもりになった理由、娘を怒る母、両親の離婚により非行に走る子ども、赤面症の女の子等。全ては「目的」に沿って行動をしているのであって、「過去のトラウマ」が原因ではないという。

 

もちろん、ここで大切なことは人の行動が「原因論」に基づくのか、「目的論」に基づくのかに関する正解を導くことではない。むしろ、自らの心が疲弊して、塞ぎこんでしまいそうになった時に、「過去」を言い訳にしない生き方もあるというものだろう。

 

 

「変わりたい」という嘘

青年「では、どうやって選びなおせというのです? 『お前はそのライフスタイルを自分で選んだのだから、いますぐ選びなおせ』といわれたところで、即座に変われるわけではないでしょう! 」

哲人「いえ、あなたは変われないのではありません。人はいつでも、どんな環境に置かれていても変われます。あなたが変われないでいるのは、自らに対して『変わらない』という決心を下しているからなのです」

よく、“あの人みたいになれたら、きっと人生楽しいだろうなぁ…”なんて指をくわえて羨ましく思うことがある。だけど、それは間違った考え方だったことに気づかされる。

本当はそんなことを言いながら、自分自身は一切変わろうとはしていないし、変わるための努力もしていないのだ。今のライフスタイルに不満はあっても、そのままでいる方が、ライフスタイルを変えようとするよりも「心地いい」という本音が隠されている。

哲人「少しくらい不便で不自由なところがあっても、いまのライフスタイルのほうが使いやすく、そのまま変えずにいるほうが楽だと思っているのでしょう。もしも『このままのわたし』であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。いわば、乗り慣れた車を運転しているような状態です。多少のガタがきていても、織り込み済みで乗りこなすことができるわけです。 一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、新しい自分になにが起きるかもわからないし、目の前の出来事にどう対処すればいいかもわかりません。未来が見通しづらくなるし、不安だらけの生を送ることになる。もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているのかもしれない。つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、『このままのわたし』でいることのほうが楽であり、安心なのです。

変わることへの恐怖と、現状維持という安堵感が、結果的に今の自分自身を形作っている。口では「変わりたい」と言っても、その願望は決して成就しない。

少なくとも、僕自身は少し前から「変わる決意」をした。やりたいことがあるのなら、それを実行に移せるのは、未来の自分ではなく「今、この時、この瞬間を生きる僕自身」でしかない。明日から頑張るとか、勉強してから挑戦するとか、頭の中にあったたくさんの言い訳は全て捨て去って、「いますぐ実行する」ことを中心とするライフスタイルを選んだ。

すると不思議なことに、これまで悩んでいた多くのことが「取るに足らない小さなこと」だったことがわかってきた。「できない言い訳」を列挙するのはとても簡単だけど、「実際に行動してみる」ことは想像以上に困難なのだ。

 

「同じではないけれど対等」

哲人「いいですか、われわれは誰もが違っています。性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは『同じではないけれど対等』なのです」

世界には、僕という存在は二つとない。同様に、あなたという存在も二つとない。全ての人は「同じ」であることはない。しかし、「対等」なのだ。確かに、様々な要因で、人と人には差異が生まれる。しかし、それは「優劣」ではなく「違い」、言い換えれば「個性」ということ。

僕らは、人と競うことにばかり頭と心をとらわれ過ぎてしまっていることがあるのではないだろうか。自分と他人は違っていて当たり前で、身近な誰かよりも優れていようとすることに神経をすり減らして心の余裕を失うのははっきり言って無駄でしかない。

「あの人よりも優れている」という自尊心に執着することなく、「自分らしくあろうとすること」に全ての力を注いでいく方がよっぽど楽しい生き方となるはずだ。

 

「自分の時間を生きる」という意識

哲人「承認欲求の危うさは、ここにあります。いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか?多くの場合それは、賞罰教育の影響なのです」

青年「賞罰教育?」

哲人「適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは『ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない』『罰する人がいなければ、不適切な行動もとる』という、誤ったライフスタイルです。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう」

哲人「あなたは大きな勘違いをしている。いいですか、われわれは『他者の期待を満たすために生きているのではない』のです。

青年「なんですって?」

哲人「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など、満たす必要はないのです」

“人に認められたい”

“できれば、他の誰にもできなかったことで成果を上げて”

そんな風に考えて、twitterでネタになるような投稿をしようとしたり、YouTubeに過激な動画を投稿したり、または仕事面においても「なんでもやります!頑張ります!」と言ってしまう。

だけど、ここに一つの真理がある。

僕らは、僕ら自身の時間を、「自分で生きる」ことしかできない。他人の要求に応えて頑張り続けるのは、「他人の時間を生きる」ことに他ならない。だからこそ、一旦この『承認欲求』を心の中から追い出してみることを勧めたい。

僕も、誰かの期待に添えようとすることを止めた瞬間、自分の本心に向き合えた気がしている。

“自分が本当にやりたいことは何なのか”

“これは他人の時間を生きているということにならないだろうか”

本当に人生の自由を謳歌したいのであれば、「誰かの期待に添えること」も「誰かに決めてもらうこと」も一切やめてしまってもいいと思う。僕の人生は僕の人生で、あなたの人生はあなたの人生。そこには関わりこそあれど、不要な介入はあってはいけないのだと思う。

 

それは「誰の課題か」を考える

哲人「誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。『その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?』を考えてください。 もしも子どもが『勉強しない』という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末——たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど——を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。すなわち勉強とは、子どもの課題なのです」

青年「いやいや、まったく違います!そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者でもある親には『勉強しなさい』と諭す責任があるのでしょう。これは子どものためを思ってのことであって、土足で踏み込む行為ではありません。『勉強すること』は子どもの課題かもしれませんが、『子どもに勉強させること』は親の課題です」

哲人「たしかに世の親たちは、頻繁に『あなたのためを思って』という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的——それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません——を満たすために動いています。つまり、『あなたのため』ではなく『わたしのため』であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです」

僕には年の離れた姉がいて、実家に帰るたびに「息子が勉強しない」と愚痴をこぼす姿をみかける。大学生の頃に、アルバイトで家庭教師をしていたこともあるが、そこでも親御さんは「子どもが勉強しなくて困ってる」なんて相談を毎日のように聞かされていた。

色んな子を見てきて、今になって思うことがある。

「勉強しない子ども」は《悪》のように語られるが、それは違うのかもしれない。当然、塾講師や家庭教師は仕事である以上、授業中は可能な限り全力で教えることに力を注ぐ必要がある。

だけど、家に帰ってから勉強をするかどうかは、きっと「本人の課題」なのだろう。しかし、同時に大切なことは「子どもの心を揺さぶるような体験を一緒に実践する」ことなのかもしれないと感じている。人が勉強をしようと思い立つのは、やはり「体験」を通して、自分に足りないものが見えてきた時で、社会人になってから学び直したりするのはまさしくこういった理由が根底にあるのだろう。

ただ、この勉強の例だけでなく、その他の面でも必要以上に「その人の課題」に口を出す必要はないと考えられるようになると、ぐっと心が楽になることがわかった。例えば、僕に対して憤慨している人がいたとしても、憤慨しているという感情をどうするかはその人の課題であって、僕の課題ではない。反対に、僕がその人に対して悲しい気持ちを持つことは僕の課題であって、その人の課題ではない。

冒頭にもあったように「人は主観的な世界を生きている」という言葉を思い起こしてみるとはっきりわかる。人の目を通して見る以上、世界は常に客観的ではなく、世界は常に主観的なのだろう。だからこそ、自分が変えることのできる範囲は「ライフスタイル」と「捉え方」であって、他人の「心」や「考え方」を変えることはできないし、そもそもしなくてもいいんだということ。

自分が、またはその人がどんな人生を歩んでいくかというのは、一定のベクトルこそあれ、他人がどうこう口を挟む話ではないという考え方も一つの解決策かもしれない。

 

「自由とは、他者から嫌われることである」

青年「本能や衝動に抗うことが自由なのだ、と? 」

哲人「何度もくり返してきたように、アドラー心理学では『すべての悩みは、対人関係の悩みである』と考えます。つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。ここまで考えれば、『自由とはなにか?』の結論は見えたも同然でしょう。

青年「なんですか?」

哲人「すなわち、『自由とは、他者から嫌われることである』と」

「人に好かれたい。できるだけ、たくさんの人に」そう思うのは人としての当然の欲求であるように思っていた。自分を好いてくれた人の数こそが自分の「価値」であり、「存在意義」なのだと。

でも、それが必ずしも正解であるわけではないことに気づいた。むしろ反対にそういった考えによって「自由を束縛されていた」のだ。

「他者から嫌われることが自由だ」というのは表現に若干難はあるが、真理だろう。少し優しい言葉で言い換えれば、「他人の目を過度に気にする必要なんてないんだ」ということ。

 

 

「幸福とは、貢献感である」

哲人「ええ。そしてここが大切なのですが、この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわないのです」

青年「目に見える貢献でなくともかまわない? 」

哲人「あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。つまり他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、『わたしは誰かの役に立っている』という主観的な感覚を、すなわち『貢献感』を持てれば、それでいいのです」

青年「ちょっと待ってください!だとすれば、先生の考える幸福とは……」

哲人「もうあなたもお気づきですよね?すなわち『幸福とは、貢献感である』。それが幸福の定義です」

そして、間の建設的な議論をいろいろすっ飛ばして、結論。

「共同体意識」と「貢献感」。これを自分自身の中にしっかりと持つことが「幸福」につながるというのが本書におけるアドラー心理学の結論のようだ。報酬や見返りを求めることや、承認欲求を満たそうとすること、他者への介入などではなく、心の在り方/在り様としての「満足感」を胸に抱くことが大切だということ。

ただし、現実に社会の中に身を投じる上で、職業格差、収入格差、男女・年齢による差、能力格差など、変えようのない要素がたくさんあって、人はみんな苦しみながら生きている。心の在り方が一つ変わっただけで、変えようのないものもあることは本書では触れられていないし、きっと触れようとはしていないのだろう。極端なことを言えば、世界中の人がみんな経営者になることはできないし、正社員になることもできない。必ずどうしようもない差は生まれる。その時に、自分がどこに所属するかで人生も大きく変わってくるのだろう。

「変わろうと思えば、今からでもすぐに変われる」というのは事実で、真理ではあるけれど、全員が本当の意味で平等な社会というのはとても困難だ。少なくとも、自分と誰かを比較することなく、「満足のいく人生」を歩もうとする上では、非常に参考になる本だった。

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